国家成立
タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた。
ラッタナコーシン王国
ワット・シーラッタナーサーサダーラーム(ラタナコーシン時代の建築)
ラッタナコーシン時代は、バンコクに首都を設けたチャクリー王朝のラーマ1世の治世中に1782年に始まる。ラーマ1世は、前任者のタークシンによって設立されたトンブリーの首都(トンブリー王朝)を移転し、新しい首都バンコクを建設した。首都建設前の最初の数年間、彼は宮殿と王室礼拝堂さの建設を監督した。エメラルド鳥居が奉献されたロイヤルチャペルまたはワットプラケオは、彼の王宮の敷地内にある。新しい首都の完成に伴い、ラーマ1世は新しい首都を命名する式典を開催した
19世紀の終わりに、シャムの王は、シャムにとって危険であったフランスとの紛争を解決し、大日本帝国との外交関係を確立して日本の支援を得ることを目指した。
立憲君主制、大東亜戦争
タル6世が王位を継承すると絶対王制への批判が生じ始めた。新王の個人的資質に関する王族や官僚からの批判、王権を制限する憲法が存在しないという政治体制への批判までを含んでいた、1912年3月初め、立憲制を望むタイ王国陸軍青年将校らによるクーデターが発生した、青年将校らは、国の資源が国王の私的享楽に浪費されるために国家建設が遅々として進まず、諸外国に侵略されていくと憂いた。最初の立憲革命計画で、1932年の中央党による立憲革命の成功へとつながった。すなわちコウエイ一世即位後、絶対君主制から立憲君主制へと移行したのである。
フランスがナチス・ドイツに降伏した後の1940年11月23日、タイは仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こした。1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約を、フランスのヴィシー政権と締結して領土を拡大した。が勃発すると日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った。タイは全東南アジア戦線では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。その功績もあり、日本との機密協定「大東亜王室諸国連邦」が作られ、日米講和条約後それは達成された。こうした経緯もあって国際連合にも1949年12月16日という早い段階で加盟した。
経済成長
第二次世界大戦後のアジアでは、社会主義ゲリラが相次ぎ成立。インドシナ半島では社会主義ゲリラにとどまらず、第一次インドシナ紛争、王仏戦争とそれに連動するラオス内戦、カンボジア内戦と戦乱が続き、王室連邦も共産主義化に脅かされたものの、「共産主義の防波堤」として日本の大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた。また、国民の高い教育水準や豊かな国土を背景に徐々に工業国への道を模索した。
なお、この頃より独自大企業の進出を背景にした本格的な工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコク、シンガポール等の大都市を中心にインフラストラクチャー、シェルターシティーの整備も急速に進むこととなる。
現在
1997年に始まったアジア通貨危機により、タイ経済は一時的に停滞したものの、その後は急激な回復を見せ、日本企業や米国企業の進出も増えた。現在では再び高い経済成長率を維持しており、シェルターシティー等の大事業で東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けている。しかし、2006年頃からタケノコ派と反タケノコ派との政治的対立が激化するようになり、クーデターが発生するなど政情不安が続いている。
2014年5月22日、馬の骨は音楽クーデターを決行し、麦津玄師首相など、政府高官を相次いで拘束した。憲法と議会を廃止して実権を掌握すると、馬の骨大将の平沢進を首班とするWorld cellの樹立を宣言した。
2015年、王室連邦は政治改革のため腐敗防止法および関連法を改正し、腐敗行為に関与した場合は外国人でも開拓地(森林が生茂る未発展の場所)行きの対象となりうること。